エピソード2 ジャックに手紙を書いて渡す

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’写真はジャックとの旅で福島県の勿来海外で撮影したもの。上から私、コックの福島君、ゲルダさん、ジャックさん、運転手の鎌田君、通訳の広瀬さん’

ジャックが76メートルの世界記録を樹立した直後、気持ちが高ぶっていた僕はある行動に出た。当時私も23歳と若く、スタッフとしてジャックの挑戦のサポートをしていたのですが、現場では神様のような存在に見えたジャックに、とても声をかけることはできませんでした。 しかし、せっかくの機会をみすみす逃がしたくないと思い、それこそ図々しくも、前年イタリアで一度会っただけの、実に頼りないきっかけだけをたよりにジャックと恋人のゲルダさんが泊まっている宿に、英文にしてもらった手紙を届けたのです。 

 ”あなたは私のことを覚えていないと思いますが、私は昨年イタリアの大会に日本人の選手の一人として参加していた成田と言います。 私の故郷の海も素晴らしいところです。ご案内しますので一緒に行きませんか?“  ざっとこんな内容だったと思うのですが、この手紙に書いた具体的な計画はそのときは何一つなく、 頭の中に描いていたことは・・・ジャックとほんの少しの繋がりが持てればいい・・・・。それだけだったし、 “どうせ実現することは100%無い!”と思っての行動でした。

ところが、驚いたことに、蹴ってきた返事は…”グッドアイデイア・・・いつから行くんだ? だった。  

それからが大変。 故郷の秋田へ行くあてと言えば、ダンプカーの出稼ぎで名古屋まで来ていた秋田の友人が、(仕事が終わって秋田に帰るけど、里帰りするつもりなら一緒に乗っていくか?)と連絡をくれていたくらいで、お金もないし、ことばの問題をどうするか・・・・。 今思い出してもゾッとするくらい、何の計画もしていない状態にもかかわらず手紙を渡してしまった自分に後悔しました。  しかし、若さとはすごいもので、そんな状況の中でも12日間ほどの気ままな旅は実現しました。

海外に主張していた兄の通帳から、当時の金額で60万円程を事後承諾で拝借し、フランス語の通訳を雇い、ダンプカーで秋田に帰る誘いを受けただけの友人の鎌田君に無理を言って、荷台に簡易的に幌をかけてもらいジャック達の居住スペースを確保したり、当時自分が考え付くありとあらゆる工夫をし、おもてなしをしました。 秋田に向かう行きのルートは日本海側、帰りのルートは太平洋側、美しい海岸線を見つければそこにダンプカーを止め泳いだりバーベキューをしたり、それこそ気ままで自由な旅でした。

困ったこともいくつかありました。 事前に予約しておいた秋田市内のホテルのチェックインの時間に大幅に間に合わず、旅の前半のほとんどは、携帯のない時代なので公衆電話を見つけてはホテルとのやり取りで私は常にハラハラドキドキの連続で、旅を楽しむという心境ではなかった。 そしてそればかりではなく秋田滞在中のホテルの予約は2日間だったのに、男鹿半島の門前という海岸から帰る途中に突然ジャックが、”成田さん、ホテルじゃなくてお前のうち泊まりたい”と言い出して、あの時どう処理したのか今は全く記憶にないが、ホテルをキャンセルし、狭い我が家にジャックとゲルダさん、通訳の広瀬さん、コックの福島君の4人が泊まることになったので、おふくろがたまげて(驚いて)しまったのは鮮明に覚えている。 初秋でまだ外も家の中も暑いのに、布団が足りないので冬用のしべ布団(藁を入れた厚さ50センチ近くの敷布団)を2枚重ね(ジャックが重ねてくれというので‥)そこにシーツをしいて敷布団の中に沈むような格好になったのに、本人は子供のように喜んでいた。 暑くて大変だったと思うがそんなことは私は知らない・・・?

本当にあの時は鎌田には悪いことをした。 この出来事によって多分彼はかなり仕事に支障をきたしたに違いない? なんと帰りには妹の睦子までが、ジャックの強い勧めもあって、ダンプに乗ることになったのである。後ろの広い荷台にはジャックとゲルダさん、前の運転席側には運転する鎌田君を含めて5人である。ジャックは後ろの方はこんなに広いのだからみんな後ろに来い!と言うのだが言葉が通じないし、そんな雰囲気ではなかった。 運転席側の仮眠用の狭いベットに互い違いに横になる窮屈な思いをしてもそこに自由があったのだと思う。

旅の終わりに羽田空港に送っていった時に、彼からもらった一言は、 ‟サンキュー・クレイジーガイ、またどこかの海で会おう“ それだけでした。そのことがあって、 以来33年間もジャックと家族のような付き合いをすることになるとは、その時は露ほども思いませんでした。

こちらはジャックが撮影した写真 私、福島君、ゲルダさん、妹の睦子、鎌田君、広瀬さん
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