平均して2年に一度の割合で来日していたジャックに、面白いというか、不思議な価値判断があった。 時にはバッグもトランクも含めて4~5個もカートに積んで空港の改札口から出てきて、いつもと何ら変わることがないのに、なぜか宅急便に荷物を預けようとはしない! 私の車は当時5万円もしないファミリアのぼろぼろの車で、大げさに言えば、人以外の荷物を積むといつ解体してしまうかわからない程怪しげな車なのに、その車に無理無理積んでくれと言うのである。
お金がない人ではないはずなのに、都内のホテルに着くまでいつもひやひやして運転したものだ。 そういえば荷物を積み来む時、私に積み揉ませず、汗だくになって一つ一つ自分で積み込む? そんな行動が10年間のうち5~6回もあった。 ある時などは持ちきれないほどの荷物を抱えているので、好意で、手に持っている荷物を持ってあげようとしたら、おびえるような仕草で拒否され、私の方が驚いたことがあった。
後年、その事について尋ねたところ納得のいく答えが返ってきた。 ようするにこうだ。世界を旅していて、持ちきれない荷物に困惑している時、親切に手助けしてくれた人に荷物を預けたところ、そのまま持ち逃げされた経験があったのだそうだ。それも一度ではなく数回あったという。 以来、親切な人ほど疑ってみるようになったのだという。
そのとき話してくれた中に、笑ってしまうようなこともあった。 宅急便のシステムがどうしても納得できず不思議だと思っていたらしい。 そんな話を聞くたびに、 日本の常識の中で育った私は、世界には日本の常識が通用しないことが山のようにあるのだということを何となく考えさせられたものだ。 今こうしてジャックとの思い出を思い起こしていて、改めて考えさせられることは、日本の常識の固定概念で大人になった自分は、ジャックのメッセージを具現化したいなどと偉そうなことを口にし、すでに動き出してしまったが、果たしてどれだけのことがやれるのか、はなはだおこがましくも思い不安にもなる。 何度も繰り返すようだが、彼が口を酸っぱくして話していた…”与えられた状況の中でベストを尽くせば、たとえそれが目的を達成しなくてもそれはそれで意義のあることなんだ・・・“このことだけを頼りに動いている自分に・・・、(お前大丈夫か?)と声をかけるもう一人の自分がいるのも事実だ。