さらにありがたいご縁が

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思えばバタバタの思いつきに近い発想で、ジャック・マイヨールのメッセージを込めた奥さんの両親を呼ぶための家づくりがスタートしたわけだが、もともと綿密な計画性などあるわけもなく、そういう意味では、断られた二社の言い分にもっと配慮すべきことがあったのではないかと自問自答しながらも、この計画は時間に押されるように進んでいく。奥さんのいう木窓のすばらしさを確認するために本社は富山県にあるのだが、池袋の営業所に出向いた。 当時、コロナが怪しくなりかけていたころで、巷では”不要不急の外出はできるだけ避けてくださいというアナウンスの出ている最中、(必要緊急の心境)で戦場に向かう気持ちでキマドの営業所に出かけた。マンションの一室に用意された木窓の模型を見せられ、一瞬にして、これまで聞いていた建設業者の説明とは異なる、デザイン的にも、理論的にも完ぺきと思われるモデルがここにある、と感じた。 

社長が開口一番口にしたことは、「日本にはわが社を含めて三社ほど木窓専門の会社があるが、その中でなぜわが社を選んだのですか?」という質問にだった。これに妻が即答した。「家を建てるなら木窓を付けるというのが物心ついた時からの憧れでしたので、ずいぶん前からネットで木窓のことは私なりに調べていました。それでつけるならキマド社のものと、だいぶ前から決めていました。これだけの精密な作りですので、値段が張るのことも理解していますので、全部キマド社のものを付けるには予算が足りないということも知っています。ですからメインの1~2か所だけでもつけることができればと考えております。」 すると木原社長が、「わが社は富山県に本社があります。可能でしたら一度本社の工場を見学に来ませんか?もっと正確な木窓の情報を得られると思いますよ。」と言うではないか。我々は2週間もたたずに、おにぎりを作り、人との接触を避けるべく万全の注意を払いながら富山にあるキマド本社に向かった。

本社ビルの前に立ってみて驚いた。 あれだけ木窓を力説していた木原社長の顔が脳裏をかすめる。何故なら、キマド本社ビルの窓がアルミなのである。 いやどう見てもそうにしか見えない。中に展示されている実物大の木窓は間違いなく迫力のあるそれなのだが、二階の会議室に連れていかれ、あるものを見せられてぶったまげてしまった。 ドルフィンと言う商品名の付いたその窓が、あろうことか全面スライドして横の壁に収納され、外が見える一面が窓を取り外したかのようになってしまったのである。 と言うことは・・・、アルミサッシとばかり思っていたビルの窓はすべてアルミにしか見えない塗装を施された木窓だということだったのである。

木原社長のさらなる一言が私の心を虜にした。「いやー、窓を作っていながらこんなことを言うのはおかしいんですが、私は建物が窓で囲われているのに何故か解放感が感じられなくてねー、それで一見窓がないような窓を作りたくてねー。」正にその通りで、そこはあたかも窓がないような外と一体になったかのような解放感があった。

そのあと工場をみせてくれ、この窓の機能や、これまでの苦労話なども話してくださり、妻も私もすっかり木窓にも、木原社長にも魅了されてしまった。聞くと見るとでは大違い、見るとやるとも大違いと言うけれど、実際の物を見るだけではなく、そこに至る経緯や創意工夫の説明を受けると、ぱっと見では見えないものが見えてくる。社長が本社まで来てくださいといった意味をかみしめながら、大満足で帰路に就いた。 

確かな計画もなく、何となく進めたジャックのメッセージを込めた家作り。その時々に出会ったいろんな人に知恵をもらい、支えられてヨタヨタしなからも、スタート時からははるかにその目的が明確になっていく、この妙!行動していれば、頭で考えている時の何倍もの知恵や、アイデイアが付いてくるということを実感した半年だった。

こういった出会いは枚挙にいとまがない。秋田の銘木をタダ同然で提供してくれた茂木さんや、その知り合いの息子さんの藤原さんは、自身も特殊技能者で組木障子の製作を手掛けている人なのだが、「最近は伝統工芸のような凝った建具を家に取り付ける人は皆無に近くなった…。」と言って、教科書代わりに手元に置いていた親父さんの遺品を“後世に残るなら…と言って、これもまた材料費にもならない値段で譲ってくれた。全ては人と人との信頼関係と言うか、絆のような関係が生まれて合意に至った結果だと思う。同じ秋田県人と言うだけではない、深いところで繋がっている何かを感ぜずにはいられない。

本社で見せていただたキマドのサッシ模型
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